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小松帯刀(こまつ・た

小松帯刀(こまつ・たてわき)


小松帯刀(こまつ・たてわき)は、天保6年(1835年)10月14日に、三男として鹿児島城下で生まれた。
父は薩摩国喜入の領主肝付兼善、母は島津久貫の娘で、22才の時に小松清猷の養子となり、藩主島津斉彬の小姓となる。

その後、藩政改革派として藩政に携わり、文久2年(1862年)には弱冠28歳で家老に就任する。若いながらも、小松は藩の軍事、貿易、政治を担う重責を一手に引き受ける。
慶応2年(1866)1月18日、西郷隆盛とともに木戸孝允らとの間で薩長連合を締結。

21日(もしくは22日)に薩長同盟の詰めをしあげたあと、小松は西郷や坂本龍馬らと鹿児島に帰る。坂本は前年寺田屋で襲撃されたときの手の傷が治りきっておらず、その療養もかねて妻おりょうを伴っての鹿児島行きであった。
坂本夫婦の鹿児島滞在中も、小松の別邸に彼らを逗留させていた。そして、霧島の温泉に滞在していた折も、小松と坂本は行き来をしており、何事かを話し合っている。






龍馬とおりょうの新婚旅行(霧島)

慶応3年(1867)10月、将軍徳川慶喜に大政奉還を進言した。
慶應4年1月、体調が持ち直したのか、小松は上京し、できあがったばかりの新政府の役職を次々と命じられる。
しかしその激務がたたったのか、翌明治2年(1869年)5月にはすべての役職を辞し、大坂におもむいてオランダ人医師ボードウィンの治療を受ける。
治療を受けても体調が回復することはなく、ついに明治3年7月20日、大坂で逝去した。享年36歳。
墓は、鹿児島・日置郡吉利村円林寺にある。



  • 投稿者 気の日本道観 鹿児島道学院 2007年02月18日 00:51

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